2018年10月31日

第二コリント6章8b〜10節

「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」。

これがクリスチャンの真骨頂です。私たちも聖霊によって、この強靭さ、柔軟さで人を感動させることができます。
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2018年10月30日

第二コリント6章5b〜8a節

「すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、・・・純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです」。

あなたはどのように、自分を主のしもべとして推薦しておられますか。
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2018年10月27日

イザヤ6章8節

「ここに、私がおります。私を遣わしてください」。

主の「誰を遣わそう」という呼びかけに応答したイザヤの言葉です。イザヤの使命は、人々には決して理解されることのない、主の言葉を告げることでした。人々の心が鈍く、閉ざされていたからです。イザヤはそれを承知で、預言者として立ちました。人は各々、主から使命を授けられています。患難をも喜ぶ信仰が、その使命を遂行させます。
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2018年10月26日

イザヤ6章5節

「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

イザヤの預言者としての召命は、「私は、もうだめだ」という絶望から始まりました。主の御前で自分の絶望を自覚することで、真の希望を知ることになるのです。人は自分に絶望していなければ、いざというとき、相変わらず自分の力に頼ってしまいます。
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2018年10月25日

イザヤ6章3節

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」。

主は聖なる方です。本来、人間には近づくことが許されない、隔絶された方です。私たちはただ、主を畏れるのみです。一方、私たちは神の子供とされて、聖なる神を「父」と呼ぶことが許されています。驚くべき恵みです。この恵みに驚き、感動し、震えていますか。日々、聖なる方と対峙するおののきが、私たちの心を高めていきます。
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