2018年10月24日

イザヤ5章4節

「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか」。

主の願いは、私たちが「甘い実」をつけることです。そのために豊かに祝福してくださっています。主に対しクレーマー・クリスチャンになってはなりません。「酸い実」をならせるだけです。恵みは、良い実を結ぶために十分注がれているのです。
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2018年10月23日

イザヤ2章22節

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」。

人間は知識と力を誇っても、死ねばただのチリです。どこからきてどこへ行くのかも知りません。善を欲しても、その善が行えません。死んだら無なら、人生は無意味であり、人間存在自体が無価値です。しかし、こうして自分という人間に徹底的に絶望することから、救い主への渇望と、絶対的な信頼が始まるのです。
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2018年10月22日

イザヤ2章4節

「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」。

平和を叫ぶ人はごまんといますが、創る人はわずかです。キリストは平和の主です。主が私たちに求められるのは、一緒に住む人と和解し、隣人を具体的に愛することです。平和は、私たちの心の刃を打ち砕くことから始まります。
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2018年10月20日

第二コリント5章21節

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

私たちは、自分の罪をキリストに着せ、キリストのいのちをいただき、義なる者として堂々と生きています。しかし、これこそが神の願われたことです。キリストの払われた犠牲を無駄にしてはなりません。無駄にしているかいないかは、私たちの生き方に表れています。
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2018年10月19日

第二コリント5章18節

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」。

私たちは、キリストが大祭司である「祭司の王国」(出エ19:6)に暮らし、私たちも祭司としての「和解の務め」を託されています。その務めは、人を神との和解に導くことです。そのために、挨拶する、事情を理解する、一緒に食事をするなど、できることから具体的に始めてみませんか。
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